連載 白百合ゆかりの人々

連載にあたって

人間発達学科 准教授 大迫 章史(教育学)

 今回から本学ホームページ上で「白百合ゆかりの人々」というテーマで連載をさせて頂くにあたり、ご挨拶をさせて頂きます。
 現在の学校法人白百合学園は、1878(明治11)年にフランスから3人のマ・スールが日本にやって来たことから始まります。つまり、今から約140年前ということになります。日本で近代的な学校がスタートするのが1872(明治5)年の学制からになりますので、1878年といえば、白百合学園は、ほぼ日本の学校の歴史とともに歩んできたということもできます。
 函館白百合学園は、上述の時期まで、その歴史をたどることができますし、その後、東京の白百合学園が1881年、盛岡白百合学園が1892年、仙台白百合学園が1893年、八代白百合学園が1909年に設立されるなど、現在は国内10カ所で白百合の教育を展開しています。
 そこで、本連載では、こうした白百合の140年の歴史で「白百合の教育」に関わってきた人々やできごとを取り上げていきたいと考えております。1ヶ月に1度の更新になるかと思いますが、これをみて、少しでも「白百合の教育」に触れて頂けることができればと思っております。

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第一回(2017年3月31日) 三浦ミツ

三浦光子(ミツ)(1888(明治21)年~1968(昭和43)年)

 これから「白百合ゆかりの人々」の連載を始めるにあたり、簡単に白百合学園の歴史を確認しておく。シャルトル聖パウロ修道女会を設立母体とする学校法人白百合学園は、1878(明治11)年に3人の修道女がフランスから函館に来日し、その後、函館白百合学園(1886年)、盛岡白百合学園(1892年)、仙台白百合学園(1893年)、白百合学園(1881年)、八代白百合学園(1909年)と全国に学校を設置し、多くの卒業生を輩出してきた。あわせて姉妹法人として湘南白百合学園(1936年)と函嶺白百合学園(1944年)を設置している。本連載では、こうした白百合学園の歴史のなかで、白百合学園にかかわった人たちの足跡をたどり、今に至る白百合の教育と伝統がどのようにして築かれてきたのかをみていく。
 今回の連載は第1回となるが、キリスト教(日本聖公会)の伝道師として活躍した三浦光子(本名:ミツ)を取り上げることとしたい。光子は岩手県北岩手郡渋民村に生まれ、1905(明治38)年4月に盛岡女学校(現在の盛岡白百合学園)に入学している。光子のこうした経歴等からも推測されるかもしれないが、彼女は石川啄木(本名:一)の妹である。光子が曹洞宗住職(父一禎)の家に生まれており、また啄木自身も無神論者といわれていたことを考えれば、なぜ光子が盛岡女学校に入学することになったのだろうか。こうした疑問がでてくるであろう。盛岡女学校に光子が入学した理由や経緯は明らかにはできないが、後に啄木の妻になる堀合節子も盛岡女学校に当時在学しており、その時期から節子と光子は交流があったため、節子から盛岡女学校の様子は詳しく聞いていたと考えられる。
 そして、光子自身はその後キリスト教に入信し、プロテスタントである聖公会の伝道師となっていくが、その理由についてはつぎのように述べている。「どうして私が渋民の禅宗のお寺で生れ、そこに育まれて居り乍ら、キリスト教に走ったかといふ事を一言加へさして戴きます」(1)。「私は村の小学校を卒へましてから盛岡市の仏人経営のミッションスクールに学んだ結果としてたうとう従来の宗教観念が根本から破壊されて新しく真の生命を得るためにはキリスト教より他に宗教のない事を植えつけられたからで御座います」(2)。このように盛岡女学校での学校生活が光子のキリスト教入信に深く関わっていた。また「生まれおちて以来、禅宗の静かな僧堂のなかに起き臥してきた私の魂には、どこかに宗教への憧れが芽生えていたのであろう。それがミッション・スクールの伝統とふんいきのなかで、新しい芽をだしてきたのだ。学校側からは洗礼をすすめられた。」(3)とも述懐している。これからも、盛岡女学校のミッションスクールの伝統や雰囲気が光子に何をもたらしたかを語っている。
 しかし、石川家の生活もそれほど楽であったわけでなく、光子の学資を支えていた兄啄木の収入は多くなく、光子は学校をやめざるを得ない状況に置かれる。光子の置かれたこうした状況に「盛岡女学校は天主教の学校で、それでフランス人の校長タカエ先生や舎監のマリヤ先生、それにプジェ神父などから、私がもし希望するなら学資を出してやろう、そして東京の仏英和女学校に入学させようという話があった。」(4)とある。そして、この話を一禎に話したところ、強硬な反対を受け、光子は盛岡女学校をやむなく退学する。1907(明治40)年1月のことであった。
この話にみられるように、光子はスールや神父とかかわっていたことがわかる。光子はこうした人たちから大きな影響を受けていたといえよう。その後であるが、光子は啄木と共に北海道に渡り、啄木は函館、光子は姉のいる小樽へとむかった。そして、小樽メソジスト教会で光子は洗礼を受けた。
 その後、光子は脚気の治療のため、啄木のいる函館にいき、そこで東川聖公会(おそらく函館・東川にあった伝道所と思われる)であった幻燈会にたまたま参加し、これをきっかけに兵頭愛子伝道師やミス・エバンスと親交を深めた(5)。そのうち、ミス・エバンスから婦人伝道師にならないかと声をかけられ、光子はこの道を進むことを決心した。そして、1910(明治43)年4月には名古屋の聖使女学院に入学し、その後伝道者としての道を歩んでいく。そのときの心境を光子はつぎのように語っている。「私にすると、盛岡女学校のときのことがある。そのとき私が強かったらと、たいへん残念に思っていたのだから、今度は弱くなってはいけないと自分にいいきかせ、とうとう自分のゆく道を自分で切りひらくことに決心したのであった。盛岡女学校のときの天主教とは違うけど」(6)。過去の自分への後悔にもとづく、こうした光子の決断力はすでに盛岡女学校時代から築かれてきたものだったのではないだろうか。三浦光子はその生涯を伝道師としてキリスト教とともに歩んでいくこととなった。
 三浦光子がキリスト教の伝道師としてたどった人生を考えてみるとき、盛岡女学校でのカトリック、スール、そして神父との出会いが彼女のその後の生き方を方向づけたのであり、白百合での教育が大きく影響していたといえよう。

【参考文献】
岩城之徳『石川啄木』吉川弘文館、平成元年。
小坂井澄『兄啄木に背きて』集英社、1986年。
三浦光子『兄啄木の思い出』理論社、1968年。
吉田孤羊『啄木を繞る人々』改造社、昭和4年。

註)

(1)吉田孤羊『啄木を繞る人々』改造社、昭和4年、102~103頁。
(2)同上書、103頁。
(3)三浦光子『兄啄木の思い出』理論社、1968年、172頁。
(4)同上書、74頁。
(5)同上書、96~97頁。
(6)同上書、97頁。

第二回(2017年8月21日) 石川セツ

第二回 石川 節子(セツ)(1886(明治19)年~1913(大正2)年)

 今回のゆかりの人々では盛岡女学校の卒業生石川節子を取り上げる。
節子(セツ)は、石川啄木の妻であり、旧姓を堀合という。石川節子もまた、前回の石川光子の回で記したように、盛岡女学校(現:盛岡白百合学園)の卒業である。
 節子は第9回の卒業生であり、盛岡高等小学校を1899(明治32)年3月に卒業し、1899(明治32)年4月から1902(明治35)年3月まで盛岡女学校に在籍していた。当時の盛岡女学校の校長は駒ヶ嶺忠順、校主はスール・サン・ジョアニスであった。また、節子と石川啄木がはじめて出会ったのも、節子が盛岡女学校在学中のこととされている。
 同級生であった小澤絲子の回想によると、女学校時代の節子は人を惹きつけずには置かない魅力があり、上級生からも可愛がられていたと述べている。なお、他の卒業生によれば、盛岡女学校では上級生と下級生が仲が良かったとの回想もみられる(1)。
 小澤はまた、節子がこの時期にバイオリンを習い始めたことを述べ、「今なら女学生のヴァイオリンを弾く位は常識となってゐるのですけれども、当時のしかも田舎の女学生としては珍らしい方で、どつちかと言へば今でいふいくらかモダーンの方でした」(2)と回想している。
 また節子は、女学校では作文を非常に得意としていたようで「ほんとに夢幻的な作文を書いて見せたことがありましたが、この作文があとで口さがないクラス・メートに発見されて大変囃されたことがあ」(3)ったようである。
 節子はバイオリンなどをはじめとした音楽に、なぜ盛岡女学校時代に興味を持ったのだろうか。これについては、当時、岩手県師範学校(1897(明治30)年まで岩手県尋常師範学校)に黒部という音楽の教員が赴任してから、岩手県下で音楽が盛んになったが、盛岡女学校でもこの教員に教鞭をとってもらうことにしたとある(4)。そして、啄木と節子が知り合った頃から「文学や音楽に対する興味が芽生えつつあつた時に黒部先生の熱心な指導により、益々節子さんの音楽熱は高まり、今迄これ程立派な声の持ち主とが思はなかつたので心ひそかに驚きつつ節子さんの唱ふ歌に耳を傾けた私でした」(5)との思い出もある。
 当時の盛岡女学校では、課外であったと思われるが、希望者にはオルガン奏法が教えられていたようだ。オルガン奏法については、当時の卒業生が「オルガンはマリー先生より教へていただきました」(6)と述べているので、おそらくフランス人のスール・マリ・ド・サクレクールが音楽とともに担当していたのであろう。なお盛岡女学校は、1892(明治25)年9月に開校した際、オルガンの他、フランスから運んだ岩手県下で初めてといわれるピアノを備えていた。その他にも盛岡女学校では文学もさかんであったようである。
 石川啄木の妹・光子は、節子のことを「どちらかというと無口のほうであったが、そんなときは(『小天地』の編集時)ああしたらよい、こうしたらよいといろいろと発言しておった。私にとってもやさしい姉であった、だらしないともいえるほどごく人のよいたちで、背も高くむしろ大柄とも見えるかわいらしい人であった」(7)と言っている。
 盛岡女学校の教育は、当時としてはきわめてモダンなものであったと同時に、文学や音楽に対する関心の高かった節子にとって、これに十分答えてくれる環境が準備されていたといえよう。

【参考文献】
澤地久枝『石川節子』講談社、1981年。
塩浦彰『啄木浪漫』洋々社、1993年。
盛岡白百合学園『百周年記念誌 一粒の麦 地に落ちて』平成4年。
吉田狐羊『啄木を繞る人々』改造社、昭和4年。

註)

(1)「第8回(明治34年)卒業生 室岡とよ子の回想」『百周年記念誌 一粒の麦 地に落ちて』平成4年、108頁。
(2)吉田狐羊『啄木を繞る人々』改造社、昭和4年、6頁。
(3)同上。
(4)塩浦彰『啄木浪漫』洋々社、1993年、39頁。
(5)同上。
(6)「第8回(明治34年)卒業生 室岡とよ子の回想」前掲書。
(7)澤地久枝『石川節子』講談社、1981年、44頁。